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ある晴れた夏の日

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年11月17日(水)23時02分20秒
編集済
  youtubeにナガしてる僕の曲の表紙のこの曲について

僕の作品は2コーラスめを聞けば内容が解る様になつてるのが多いです。ハジメは詞は誰かに頼む積りでしたが、だれも作つてくれなかつたので、自分で作りました。我が国では、和歌でも俳句でも大抵1番しかないからと思つて、その後の2番は語りに、3番は1番と同じでマトメました。(苦肉の策です。)この曲の歌詞も、自分で作つてはみたのですが、昭ちゃんには合わないなと思つてヤメました。この曲はクラシツクの、ドイツ式の発声法をマスターした人に歌つてほしいのです。

あるよく晴れた夏の日に、叔父や叔母が、彼等の仲間とタツグ・ボートで、遠い海の沖へ行つて泳ごうじゃないかという事になつた。「セー坊も行くか?」と言われたので、従いて行く事にした。・・・灯台を越えるとすぐ、右に僕等の町の本牧が見えてきた。沖から見ると、まるで夢のような素晴らしトコに見えた。
船は舳先で白いシブキを揚げながら、滑る様に静かに進んでいた。
遠くでは戦争などやつていたが、みんな夢一杯、とても幸せな日々でした。・・この下の紫色の所をクリツクすると小生の作品が出ます。動画という所の方が多く出ます。よろしく。

http://www.youtube.com/user/fujimoto0325

 
 

昭ちゃん

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年11月15日(月)19時47分57秒
編集済
  この前書いたけど、こちらの都合で削除してしまいましたが、もう一度書きます。
大野さんのざるそばカントリーに僕が行つてた時、ある人が「ヴァィオリンもつと上手くなりたいから教えて下さい」とやつて来た。その人はバヨリン演歌師で小沢昭二さんといつた。彼は17才で海軍に志願して入り、特攻隊になつたが、なぜか生き残つてしまつたらしい。
僕より一年後の昭和2年生まれの83才の方です。近頃、彼が歌つてる僕の作品をお聞きになつて、僕のところへ「藤本さんのお声は、ハリがあつて素晴らしいです」とか、「聞いてるとなぜか映画の寅さんを思ひだします。」という様なeメィルを頂きます。
昭ちゃんも「山田洋次先生が会いたいと言つてきた」と言つてたけど、どうしたかなあ?あの人、要領がわるいからなーなどと思つてます。どうして昭ちゃんが歌つてる僕のウタが寅さんなのか解りません。以上 thank you

http://www.youtube.com/user/fujimoto0325

 

新コジキ下書2

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年11月 2日(火)22時50分45秒
編集済
  <アコちゃん>
アコちゃんの消息は、あの日一緒にやつたバンドのメンバーの一人に当たつてみたらすぐに分つた。
その人の話では、彼は今、吉野町をチヨツト弘明寺方面に行つた、左の方にある、国際劇場というストリツプの劇場のオケボツクスでヤツてるとの事、それで僕は早速、彼を楽屋に訪ねた。丁度幕が開くところだつたが、彼は「客席で見てて下さい」と言つて僕を案内してくれた。
舞台ではちよっとエッチだけど、中々洒落たコントをヤツていた。
中年の男にお妾さんが「早くタテてよ(家を)とせがんでいた。「もうピンピンに立つてるよ」なぞと結構面白かつた。なんやかんやあつて、彼は我々のバンドに来る事になつた。
彼の名前は、柳田ク二雄といつた。その当時の日航の社長と同じ(字は違うが)なのでそれを言うと「あーあれは叔父です」との事、若いのにとても世慣れしていて、当たりはいいが、ちよつと図太そうでした。(女性にも慣れていた)
彼はダブルイーグルという曲が得意だつた。彼がそれをステイヂで演奏すると、兵隊がバカバカしいぐらい興奮して盛り上がつた。そして我々のバンドにとつて、強力な戦力になつた。
<スクエアダンス>
毎週火曜日に出ていた、本牧のシーサイドクラブというシヴィリアンクラブで、スクエアダンスをヤルことになつた。コーラーという号令かける人がいて、(ァメリカでは、とてもイイ内職だそうです)その人が、スクエアダンス用の曲の譜面やレコードを貸してくれた。
御陰で僕のソロの曲が俄然多くなつた。またそのコーラー(将校だつた)との関係で方々のスクエアダンスのパーティに呼ばれるようになつた。それは大抵、夜半から朝にかけて将校クラブで行はれた。
それで、日曜日は朝は長者町5丁目のホットメス、午後はゼブラクラブ、 夜はエンジニアクラブ、夜中はホワイトエンサインと、4ケ所もやることになつた。だからその日1日で6000yenでサラリーマンの1ケ月分であつた。
<録音機>
僕は神田の電気屋でカツター式の録音機を見つけたので買つた。それで何の曲でもラヂオからコピー出来るようになつた。・・その頃いつも一番多くリクエストされていた曲でオレンヂブラッサムスペシアルという曲があり、ラヂオでやつてるのを何度も採ろうとしたが、採れなかつた。だがこの新兵器のおかげで採ることが出来た そしてこの曲はバカウケになつた。
!この下書御覧なさる方へ
この後は拙者老いぼれて、目が悪くなつちゃつて、書くのがシンドイんで、ここから前に僕が書いた新ウエスタンこじきの下書5の<バンマス>というとこへツナギます。すいませんです。(この幾つか下の方に下書21から1までが御座います)なほ、この下の青色の所をクリツクするとyoutubeで、僕の作品が色々出ます。動画というトコの方が沢山出ますです。よろしく

http://www.youtube.com/user/fujimoto0325

 

新版 tokyoウエスタン古事記 下書き1

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年10月22日(金)18時33分7秒
編集済
  <yokohama green plow boys>

僕がウェスタンを始めたのは別にそれが好きだつたからではありません。
あれは昭和21か2年の頃でした。ヨコハマの南京マチ(中華街)に亜細亜とか何とかいうキャバレーがあつて、僕はそこで仲間5・6人とササヤカなバンドをやつていました。
そんな或る夜、あるお客さんが、演奏している僕のポケットに小さな紙きれを入れて、チヨット頭を下げて出ていつた。それには、お話したい事があります海員閣でまつてます。と書いてあつた。

休憩時間にそこに行くと彼がいて、まあメシでも食いながら話しましょうという事になつた。
彼の話では・・現在仲間6・7人でハワイアンのバンドをやつている。彼はマネイヂヤーとサイドギターを担当している。最近は米軍基地の仕事が多く、そこでは今ウェスタンという音楽がとてもウケている。それでどうしてもヴァィオリンを入れたい。貴方なら出来そうなので、ぜひ参加してほしい。という事でした。僕が「ウエスタンて何んですか?」と聞くと、「まあ一遍見に見に来て下さい」と彼は言つた。全く運がいいことに、僕たちのバンドは店との契約がきれ、解散するところだつた。だから渡りに舟で、やつてみる事に決めた。
それである日曜日の午後、彼らがその日出演しているゼブラクラブという所に行つた。
そこは下士官のクラブで、南京町のヨコハマ公園寄りの入り口の少し手前を左りに行つたところにあつて、元加賀町警察の所だつた。そこには戦争に勝つたばかりのァメリカの下士官たちが女の子を交えて、みんな誇らしげに、お酒をのんだり、食事をしたりしながら楽しそうに談笑していた。そのころ、普通、日本人はァメリカ人のまえではヘイコラして縮込つていました。(いまでもかな?)なのに彼らのバンドは、米軍とよつぽど相性がイイらしく、仲間同士みたいに、一諸になつて騒ぎながら、やたらハツピーに演奏していた。(変な日本人という事で評判だつたらしい)・・ぼくはこリャー面白そうだと思つた。だから控室でバンドのマネィヂャーに「どう、一諸にやりいませんか?」と言われたとき、二つ返事で「お願いします」と答えた。[それじゃー今度練習する時、樂器を持つて来て下さい・・電話しますので、その時こまかい事は話しましょう」という事になつた。それから2・3日たつて「土曜日の午後、ドラムの家で練習するので来て下さい」という電話があつた。土曜日になつて、メモしておいた地図を頼りに、そこへ出かけた。・・ドラムの家は元町のトンネルを越え本牧方面へ少し行つた丘の上にあつた。
<練習>
僕が行つた時もうみんな揃つていて、練習を始めていた。練習といつても、楽譜もレコードも何にもない時代なので、毎日、朝の10時頃やつてるWVTR(fenの前身)のウェスタンの時間に、各自、ラヂオを聞いてそれを覚え、ギターのコードつけて、それから皆んなで合わせるしかないのです。とてもそれは、大変な作業ですが、それが即、収入に返つてくるので皆、ハリキッテやつてました。ですが2・3年まえはまでは、まさか英語など話す事態になろうとは思つてもみなかつた人達なので、歌詞のほうはかなりいい加減なものでした。ある日、ヴォーカルの中村さんの歌詞ノートが控室のテイブルの上に置いてあつた。次のステイヂまでまだ時間があるので、退屈まぎれにペラペラとペイヂをめくつてみた。テネシーワルツの9小節めにアイ・エンター・ダスティンと書いてあつた。如何いう意味だろうと思つていたら、丁度その時中村さんが入ってきたので「これはどういう意味なんですかと?」と聞いたら「何だか分かんないんだけど、ラヂオでそう言つてんだよ」との事。(本当はアイ・イントロデュースッド・ヒムでした)
またある時は中村さんがアイ・ラヴ・ユウ・ビコーズを歌つていると、ニコニコしながら、兵隊さんが近か寄つて来て、「そこはイッツ・ハート・ミーじゃないよイツト・ハーツ・ミーだよ}と教えてくれたりもしました。しかしそんな具合の英語なのに、なぜかこのバンドはやたらと米軍基地でウケていた。
このバンド入つてビックリした事は、今まで、ひと月働いて5000yen位いたのに、1日行くと1500yenもくれるれるのです。それに食事や飲みものがクラブから出るし、また、兵隊さんからの差し入れが一杯あるし、アンコールで時間をオーバーした時など、取り巻きの兵隊さんが、テンガロンハツトを持つて回ると、その日のギャラより多いドルが集まつたりしました。
<御贔屓>
このバンドには幸せな事に御贔屓が一杯いました。ある人はマイクスタンドに吊るす垂れ幕みたいな物を持つて来てくれたり、またある人は胸につけるワツペンを作つて来てくれたりしました。ちなみにこのバンドのグリーン・プラウ・ボーイズという名前もフアンの兵隊さんがつけてくれたのだそうです。
そうこうするうちにバンドの名前がうれて来たせいか、週2・3回だつた仕事が4・5回になつた。当然、収入も多くなつて目出度い事なのですが、バンドの中には余り仕事が多いのを歓迎しない人もいて、アコとベースが止めたいと言い出した。それで残り組の人達が「いいアコいねーかなオリンちゃん?」と僕に持ちかけた。・・・そこで僕は前の年のクリスマスの夜伊勢佐木町のあるクラブで一緒にやつた、柳田君というアコ弾きを思ひだした。・・・その夜他のメンバーが「今日来るアコはアドリーヴがやたら上手いぜ」と言つていた。僕はその時、彼の演奏を聞いてみて、チヨット荒つぽいけど調子いいし、ハッタリがあつて、素人をけむりに巻くのが上手そうに思つた。それで我々のバンドには丁度いいなと思つて探す事にした。

http://www.youtube.com/user/fujimoto0325

 

これまでの原稿

 投稿者:トクさん  投稿日:2010年10月10日(日)12時13分49秒
  藤本さん、
徳永です。

これまで、この掲示板にお書きになった原稿をコピー
して1つのファイルにまとめました。
以下のサイトに置いておきますのでアクセスしてダウ
ンロードしてください。
ダウンロードまでの手順は次のとおりです。

1.下記アドレスをクリックして、して「インターネットディスク」の
ページを開く。

http://pub.idisk-just.com/fview/Dwy_i7HAbCVgd4MiCNWWgTH7D1o4-01KCFPo6gOdI31V20B-mf0a-w

2.リストの「名前」欄にある「藤本さん原稿.txt」というファイル名を
右クリックする。

3.ポップアップされた窓のコマンドから「対象をファイルに保存」をク
リックする。

4.「名前を付けて保存」画面に変わるので「保存場所」と「ファイル名」
を確認して[保存]ボタンをクリックする。

以上でファイルが保存されます。
これはテキストファイルなので、「ワード」などのワープロソフトで編集さ
れるといいでしょう。
 

下書21

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年 3月26日(金)22時10分24秒
編集済
  <スマイリさん>

僕たちは管楽器が主になつてる、9人以上のジャズバンドをフルバンドと言ひます。たまには7人のこともあります。キャバレーやクラブのそれは9人から15人位いです。大野さんと僕は15人用のフメンをもつて、方々のキャバレーなどのショウをやつてあるきました。それで、とても親切なバンドにも会いましたが、ひどく不親切なバンドにも会いました。一般的にいえばいいバンドほど親切でした。あるバンドなど「音合わせお願いします」と言つたら仏頂面して「ウチはやらないんだよ、出来るから大丈夫だよ」と言つた。だけど、本番の時、ちつとも大丈夫ではなかつた。・・
それにひきかえスマイリ小原さんのところはとても親切でした。・・
ある時など、僕等のショウの最中にひどくお酔いになつたお客さまが、ステージに上がつてきてしまつて、「アイソウ ザライト、アイソウ ザライト」と、大きな声ででリクエストして喚いていた。そのときスマイリさんは、僕の方を向いて大きな声で「ジー」と聞いた「ハイそうです」と言うとやにわにバンドに向かつて「ジー、イントゥー」と叫んで、カウントをとりだした。それに続いてピアノの人が前奏をやつてくた。僕は長いことこの世界で仕事をしてましたが、フルバンドがフメンなしでやつたのは見た事がないので、びつくりくりしました。・・
また、スマイリさんは面白い人で、僕がショウの仕事で彼の出ているクラブへ行つた時、
「おはよう御座います、今日は宜しくお願ひします」と挨拶すると「やあ来たか先輩!ヴァイオリンの名人」などと大きな声で叫ぶのです。彼と僕は中学は同じですが、本当は彼の方がずつとと先輩なんです。彼は僕にとても良くしてくれて、二人でいる時、だれかに会うといつも「この人はイイんだよ」と僕のことをセンデンして呉れた。・・
いつだつたか、どっかのテレビ局の喫茶店で、彼と僕がコーヒーを飲んでいると、水原弘さんが同じテーブルに座つた。例の如くスマイリさんは「この人はイイんだよ」と彼に言つたら水原さんはブスッとした顔で「しつてらーい」と言つた。・・・
僕がスマイリさんと初めて会つたのは、ウエスタン古事記の1番は始めのページに載つてる僕がグリーンプラウボーイズを尋ねて、初めてゼブラクラブに行つたその日でした。
そこには、毎週日曜日の午後はグリーンプラウボーイズが出てて,、そのあと7時頃からスマイリさんのところがやつていました。その頃のスマイリさんのバンドは5人位で、彼はアコーデオンを弾いていた。その他メロとしては、トランぺツトがいて、コミカルなことをやつてウケていた様でした。いつだかスマイリさんの出てるクラブ・リーへ仕事で行つたら、従業員が「スマイリさんアコーデオンも弾けるのよ」と教えてくれた。
 

下書20

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年 3月26日(金)02時43分21秒
編集済
  <キャバレーのエンタテイナー>

話は変わりますが、キャバレーの歌手はレコードとか劇場などで歌う様に歌つては駄目な時があります。ある時僕が教えていた女性シンガーで、[圭子の夢は夜ひらく]をとても上手く歌うのがいた。僕は修行のためと思つて、あるキャバレーでやつてる友人のバンドに預けた。どんな具合いかなーと心配なので様子を見にいつ行つたら、その夜は一回も僕の気に入つてるユメヨルを歌はなかつた。僕は不思議に思つて、如何してユメヨル歌わないの?」と聞くと、「あのー・・あれ歌うとホステスが泣くから駄目だと言われたんです」と言つた。きつとマネージャーは、折角お客様方が楽しくしてらつしゃるのに、店内を、しめつぽくしてはいけないと思つたのでしょう。・・・
また僕はあるプロダクションでお手伝いをしていたときが御座いましたが、キャバレーで一番喜ばれたのは、着物を着て元気に日本調を歌う女の子でした。・・それは葬式の時にやる曲と結婚式のと時やる曲が違うのと同じ様な事かもしれません。また、これはごく最近の話ですが、僕が気に入つてる男性歌手がいて、ある高級クラブ(とよばれる所)へ入れておいたたのですが、声が大きいという事と目立ち過ぎるという事でクビになりました。その様な所では、音楽が中心ではないので、よつぽど周りに気をつけてやらないといけないのです・・
僕自身も、大野義夫さんと二人で組んでキャバレーのショウをやつてましたが、ある時、大変ウケていたので、サービスのつもりで15分くらい余計にやつた。そしてステージを下りて楽屋へ行つたら、マネージャーが待ち受けていて、大変お叱りを蒙つた事が御座いました。
何故かというとショウの間は、お客様はあんまり飲んだり食べたりなさらないので、売上げが落ちるのだそうです。それで何事でも、その場所と自分の立場など、よく考えてやらなくてはいけないなあと思いました。
 

下書19

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年 3月24日(水)06時09分4秒
編集済
  <蒲田のロイヤル>

僕たちが初めてキャバレーのバンドとして入つたロイヤルはJRの蒲田駅西口を出て、真すぐに大通に沿つて、100m位行つた所の左側ににあつた。店内は長方形でその短い方の1辺がバンドのステイヂになつていた。そしてバツクの壁の裏側が、バンドの控え室になつていた。それでそこには幾つかの椅子があり、壁には洋服掛がついていた。そこは横には長いのですが、幅は1mには満たない様でした。バンドのユニフォームは、毎日そこの壁に掛けて帰るのですが、次の日それを着ようとすると、いつもゴキブリがポケットからゾロゾロ出て来た。また、ステーヂの上の方に換気扇があつたのか、店内のタバコの煙が歌つてる僕たちに襲いかかつた。・・・しかし、キャバレーで働いていて、感心したのは、みんながとてもお客さんを呼ぶのに一所懸命だつたことです。毎日朝礼(朝ではないが)みたいなのがあり、マネーヂャーが「今日1日お客さまに何とかかんとか」と大きな声でいうと、従業員がみな大きな声で複唱する。それからマネーヂヤーの訓示があり、今日のお客様にお薦めする料理の説明(どこの国ので材料は何、等)それから、サービスのしかたなど、例えば手が荒れるから洗濯など家事を控えること、お客様に手を触らせる場合は左の手を出すこと(柔かいから)など、毎日こまかく訓示する。また驚いたことに、表でサンドイツチマンをして、通る人に呼び掛けていたのがマネーヂヤーだつた。そこの店では、午後7時半頃までは、サービス料金として、1セツト穴あきの5円玉1コだけだつた。それでもたしか、大瓶のビール2本に立派なオードーブル、それに女の子もついた。マネーヂヤーは「その時間に来たお客様は、それで帰つてしまつても、必ずといつていい位い、また普通の時間帯に来てくれるんだよ」と言つていた。

<工藤クン>
その頃ウチのバンドでは、工藤クンというのがメインボーカルをにやつていた。歌謡コーラスみたいな演奏をしていると、どうしてもメインボーカルばかりがモテてしまう、それに、彼は結構ハンサムなので、ホステスにも人気があり、みんなからプレゼントなどを貰つていた。・・お客さんの中にも、彼のフアン出来て、高価な食事に呼ばれたり、洋服等などを作つてもらつたり、彼はハツピーだつた。それで自信がついたせいか、ギャラが安いと言つて、僕に上げてくれと言つてきた。キャバレーのバンドは大抵バンマスの請負仕事なので、バンドのギャラは決まつているが、それをいかに配分するかは、バンマスの裁量に任されている。だからメンバーのギャラを上げると、その分だけ、バンマスの収入は減るのです。でも仕方がないから上げた。そのうち毎月毎月上げるハメになつて、仕舞いにはヤメていつてしまつた。そもそも彼と僕との出会いは・・

ある時、大野さんの仕事で北海道に行く前日、バンドのメンバーがまだ一人足りなかつた。それで大野さんが、僕に探してくるように頼んだ。だから僕は、その頃よく面倒をみていたツームストーンズというフォークグループから、一人借りてこようと、彼らがその日出ていた蒲田のマーメイドというところにに行つた。メンバーを借りる事はダメだつたが、控室にいたら、あるボーイさんが同遼に「あー北海道にいきてーなー」と言つていた。(彼は北海道出身だつた。)それで僕は{お宅ギター弾けますか?」と聞いた。彼は「少し弾けます」と言つた。だからバンドのギターをかりて弾かせてみた。結構いけた。僕がなかなか上手いじゃない・・・バンドやんない?明日から北海道だよ」と言うと「それはいいですねー」と言つたので、早速お店のマスターに、その事を相談すると「うちのボーイがバンドにスカウトされたりすれば、今度ボーイを募集する時人が集まりやすくなるからね」と快く了承してくれた。それで彼はその翌日から我々とバンドをやる事になつた。それが工藤君である。
 

下書18

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年 3月21日(日)17時43分4秒
編集済
  <キャバレーのバンマス>
近頃は少ししか残つていませんが、以前、繁華街には沢山のキャバレーと云うのがあつた。
そしてそこには大抵、9人から15人位のジャズバンドと5人編成位のコンボやハワイアンのバンドが入つていた。そして主なバンドの方は毎日日替わりで来る、ショウのバツクをつとめる事になつていた。私どものやつている。ウエスタンという業界の、人を養えるキャパシティーは非常に小さいので、時にはアブレてしまう事がある。そんな時ぼくは、よくキャバレーのバンマスと云うのをやつていた。その世界に入つたキツカケは・・・

以前神田の駅のそばに三船音研というのがあり、三船さんと云う人がそれを仕切つていた。
彼は若いミュージシャン志望の人たちを沢山面倒みていて、それらを組み合わしては、いくつものバンドを作り、方々のキャバレーにまわしていた。そして彼は各バンドから面倒見料として、出演料の10%を取つていた。彼の面倒見はとても良く、沢山の若者が集まつていた。僕はよく彼に頼まれて、トレーナーというかコーチャーというかそんな事をしていた。
その頃僕は、大野義夫さんとカントリーメイツというバンドでやつていたのですが、何かの都合で大野さんは、バンドと離れて他で仕事をすることが多くなつた。それでバンドはバンドで独立してゲストの歌手など入れて仕事をしてた。その時は僕はバンマスという事になつていた。しかしある時、プロダクションがバンドをキープする事をやめる事になつたので、僕は困つて三船さんに相談すると、彼は「丁度いいや・・ふじモツちゃん・・・蒲田のロイヤルやるかい?今月の半ば頃にテストがあるよ。」と言つた。それから店の要望はロツク出来る歌謡コーラスで、ギャラは1ヶ月50万で6ヶ月契約だと言つた。そこで僕はバンドのみなさんに相談すると「やろうじゃないかいと云う事になつた。しかしどの程度のの質の演奏をすれば、それらの所で通用するのか、初体験なので分らず不安だつた。それでみんなに好かれていた曲のうち、30曲くらい選んで、もとはコーラスのないものにも僕流のコーラス<殆どソロとバツクコーラス式>全員歌に参加して一所懸命練習した。その他ポプラーなジャズナンバーやプレスリーのロツク、ぼくのフィドルをフイーイーチャーしたムーディーナスロールンバ、それにケイジャン風にアレンヂした旅姿三人男などを引つさげてテストにんぞんだ。

結果はわが方の圧倒的勝利に終わつた。「あんなの出されちゃたまんねーやヴアイリンまで入つちゃつてよー」と、他のバンドのメンバーがぼやいているのを僕は耳にした。然し当然の結果だと思う、なぜつて他のバンドは唯のピアノトリオにおざなりのコーラスをつけたのや、明らかにロツクバンドで、、感性が違うのに無理して演歌をやつてる様なのだつたりしたからです。

そんなやこんなで、何とか僕等のバンドはハナバナしく出發した。・・そのバンドの名前はサンズ・オブ・ワゴンマスターズというのでした。これはテストを受ける時三船さんが「ふじモッちゃん何という名前でだす。」と言つたので、アメリカのサンズ・オブ・パイオニヤーズにヒントを得て、それにワゴン・マスターズにあやかつて、その場で僕が決めたのです。その頃、わが国にキャバレーは何千とあつたでしょうが、ウエスタンバンドが専属なんていう所は他になかつたのではないでしょうか。
 

下書17

 投稿者:藤本精一メール  投稿日:2010年 3月17日(水)17時02分50秒
編集済
  <ひろい様で・・・>

敗戦直後の一時期、社交ダンスが大変流行つたことがあります。それで各所に沢山のダンスホールル出来ました。その時僕は、アッチコッチのダンスホールのタンゴバンドでヴアイオリンを弾いていました。ヨコハマの伊勢佐木町のある小さなホールでやつてた時、何か都合でで僕はそのバンドをやめた。何日か後に、用があつてそこの事務所に行くと「フヂちゃん、こんど入つたヴアイオリンなかなかいいよ、見てつてよ」とマネージャーが言つたので、ホールの方へ回つて行つて見た。ボーズ刈りみたいな頭をした男の子がヴアイオリンを弾いていた。結講よかつたので、ぼくはマネージャーに「なかなかいいですねー」と言つて帰つてきた。それからかなり後のこと、僕の住家に僕の実母だという人が訪ねて来て,「ウチにこないか?」と言つた。僕はいつも、母は亡くなつたと聞かされていたので、びつくりしたが、母がどんな人か興味もあつたので、行つてみようかなと思つて祖母に相談したら「いいじゃない、行つてみなよ、嫌だつたら又帰つてきなよ」と言つたので行つてみることにした。そして母の家のファミリーになつた。それまではキョウダイは僕の下に5人だと思つていたが、そこの家にも5人いた。僕の次の子は男で一陽といつた。でもビツクリしたことに、彼は僕が伊勢佐木町のホールで見た僕の後に入つたオリンの人だつた。その後かれは、僕の知人の紹介で、鰐淵賢舟さんに師事した。そのお蔭か、メキメキ上手くなつて、僕は先輩たちに{お兄ちゃんはダメだねー弟さんは良くやつてるよ」と言われる様になつてしまつた。
そして彼はABCシンフォニー,東京音大の講師などやつてたが、彼の息子の安西史孝氏が彼のホームぺィヂに、親父の法事も済んだしなんて書いていたから、もう亡くなつたのだろう。
 

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